ショートエッセイ 根にもつタイプの独り言 part1

ここに登場する個人、団体、企業はすべて架空のものです。

ロクデナシ図鑑 Ⅰ

河田テクノシステムというコンピュータ会社がある。社員は百名を超えているが、まともにプログラムを組める社員は二十名ほどである。

新入社員の私は浦部という奴隷使用人の下に配属された。こいつは妙に威張り腐った野郎だったが、プログラムの腕はまともだった。ところが、こいつは自分の仕事をすべて私に押し付けてきた。いまでいうパワハラを平気でやる野郎だった。

この使用人である浦部は大工の息子だそうで、なにかあると「おれは職人だぁ」とか「百万年はえぇ」と騒ぐ輩だった。

残業時間は月に100時間などはいい方で、200時間を超えることも当たり前だった。死ぬような思いでプログラムを組んだのだが、プログラミングを覚えるのには都合がよかった。この点では感謝しなければならないだろう。

私が悪戦苦闘している間に他の人は無関心でいてくれたので助かっていたのだが、なんか知らんがプログラムの大本(おおもと)を一通り作成した時のことだった。

浦部がなんと上に報告したのかは不明だが、フロアにいたほぼ全員、部長からヒラ社員よりちょっと上の連中まで、あまねく

あれを作れ、これをプログラムに入れろ

と一斉にわめきだし、指示命令系統などあったもんじゃない。

なかには、直接私のところへ怒鳴り込んできてこれを作れ、などと大声をだしてわめくバカまででる始末だった。

ブラック企業で仕事ができるのはとかく標的にされやすいのだなあ、ということがよくわかり、一年でこの会社を辞めることに決定した。

ロクデナシ図鑑 Ⅱ

会社を辞めることを浦部に伝えたところ、浦井というヒラよりちょっと上の野郎が陰険に私をいじめだした。

会社の送別会では、酒乱のトップが一年で辞めるとは思わなかったといったが、会場を見回しても、誰一人私が所属していた連中は部長も含め誰も出席しなかった。

なるほど、この会社は新入社員を踏み台にして出世していく会社なのだなあ、辞めるとなると奴隷脱走とばかりに、もう用はねえ、ということかと、口車に乗ってこの会社に入った己の不明を恥じ、情けなくて涙がでてきた。

一月の終わりになって体調が悪くなり病院へ行った。退社二カ月前のことだった。病院から一カ月間の静養をいいわたされた。

二月の一日の午前九時ちょうど。部長から電話がかかり、辞めるからといって勝手に出社しないのはどういうことだ、という怒りの電話がかかってきた。病院の話をすると、ああ、そうか、といって電話が切れた。

こんなもんである。静養明けに診断書を持参すると、いらねえよ、こんなもの、というから、ウソついたと思われたくないんでね、と切り返して診断書を提出した。

浦部からあいさつ回りをしろと言われ、おとなしくあいさつ回りをしていたとき、浦井の番がきた。こいつが奴隷の監視役である。こいつにお世話になりました、と声をかけると、お前が次の会社へ行ったときは解雇されたと言ってやるぅ、というふざけたことをいってのけた。

こちらは別に次の会社などどうでもよかったので、ああ、そうですか、といったら、そうなんだよ、必ずお前がいく会社から退社理由を聞いてくるからな、そのときに行ってやる、とひとりで息巻いていた。どうもいうことが幼稚園生並であるが、本人にしてみれば、一丁前のことを言っているらしかった。

浦井は高卒でこのブラック企業、河田テクノシステムにはいった野郎で、精神年齢はまだ幼稚園生並からでていないらしい。

私は高卒であろうが使える人間には敬意を払うし、大学院卒でも使えない奴は軽蔑するだけである。浦井は仕事もできないし、精神年齢は幼稚園生並だし、おそらくは逆恨みであろうと思われた。

奴隷に脱走されて出世の道が遅れたのであろう。情けない奴、というか、新入社員を踏み台にして出世しようなど、それこそ浦部じゃないが百万年はやいというものだ

幼稚園生並の浦井が解雇されたといってくれれば急場で入った次の会社もダメになり、今度こそゆっくりと会社を選べるな、と思ったのだが、浦井のカス野郎はそれも言わなかったらしい。いや、いうチャンスなどあるわけはないのだ。

当たり前の話である。解雇かどうかは人事課の話であり、浦井ごときにそんなことをいう権限すらないのである。

こんな幼い者が上にいるというのがブラック企業たる所以(ゆえん)であろう。

ロクデナシ図鑑 Ⅲ

もうプログラミングはこりごりだったので、今度は学習塾へ就職した。ところがこれもブラック企業だった。こうゆうかん学院という株式会社だったのだが、組合などもない株式会社である。

普通の企業でおそらく社長だか専務取締役あたりにいる井沢という野郎は学院長様と部下に呼ばせて有頂天になっている野郎で、ちんちくりんの瀬戸物のたぬきの置物そっくりのくせにナルシストだった。

やることなすこと常識外れで、自分の母親が死んだとき、こうゆうかん学院とは無縁であるはずなのに、社葬にするという。

頭がおかしいんじゃねえの、と私がいうと、私の上の久慈という野郎が井沢にチクり、それじゃあ、半社葬にするという。

また、塾の半径2km以内に塾を作ってはならない、という経済活動の自由に違反する誓約書に署名させようとしたり、塾の必需品である文房具は自前で用意しろと、バカ丸出しのことを要求したりした。

あるときは、社員はみんな生徒に対して悪者になって説教をしろ、他のバイトの先生たちに人気が集まるようにしろ、と言った。バカじゃなかろうか。

あぁ、僕はみんなのためにあえて悪者になるとは、なんて健気な僕ちゃん、といったところだろう。

井沢は、親族の伝手を頼って銀行からようやく金を借りられる立場になり、三億円の家を建てたり、本部校舎には茶室まで作る有様である。

そのくせコピー機の前には「紙1枚は血の1滴」などというとんでもない張り紙をべたべたと貼っているのである。

ここは株式会社といっても、親族で固めた同族会社だったのだ。株はすべて親族間で持っていて、他に株を公開してはいないようだった。

さて、あるとき私がヒラ社員の給料で教室をひとつ持たされたときだった。82名で引き受けたが、一時生徒数を68名までに減らした。辞めたいのが多かったからである。

それを金に目のくらんだ井沢は私を失敗呼ばわりして息巻いていた。

ところが、夏休みに入る4か月間で生徒数を134名にまで回復してやった。井沢の常識外れな方針に反対ばかりしていたので、井沢は「反抗的な態度のやつが1名いる」と私を名指しすればいいものを、生徒数を増やしたのでそれもできず、お得意のナルシストを発揮して、「可哀想な僕ちゃん。あえて悪者になってみんなを結束させるんだもん」といった感じで、あまりに馬鹿々々しいので、夏前に辞めた。ボーナスはでなかったが労働基準監督署へ訴える気も起きないほど、呆れ返っていた。

一年後、こうゆうかん学院にいたアルバイトの人に聞いたら、私が担当した校舎も含めその地区全体で生徒数が半減したそうである。

実力ではなく親族の伝手を頼って銀行から借り入れができるようになった井沢程度じゃあ、どんなに「こうゆうかん学院には200名までの生徒であればノウハウがある」とうそぶいても、こんな程度である。

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